「みんな抱きしめて、銀河の果てまで!」は何がすごいのか

背景

 マクロスFの特徴といえば、宇宙を舞台にした戦いの中で歌が重要な役割を担う点であろう。戦いが描かれるとき、いつもアイドルが裏で歌っている。物語の初めの方では偶然に、物語が進むにつれて意図的に。アニソン目当てでアニメを見ているような人種にはぜひお勧めしたい作品である。新天地目指して宇宙を旅する設定が好きな人は言わずもがな。

 アイドルもといヒロインは2人登場する。マクロス・ギャラクシー出身"銀河の妖精"ことシェリル・ノーム Sheryl Nome と、マクロス・フロンティア出身"超時空シンデレラ"ことランカ・リー Ranka Lee である。シェリル・ノームが初めからトップアイドルとして登場するのに対し、ランカ・リーはシンデレラの異名の通り初めはごく普通の女子高生1として描かれる。物語の中盤辺りはランカ・リーの成り上がっていく様が心地よい。表題の言葉はそんなランカ・リーの舞台上での決め台詞だ。

!?

 抱きしめて!?え、抱きしめますが???うんうん銀河の果てまで全然OK。となるのが普通の反応だと思う。反論の余地などあり得ないのでここで終わっても問題ないのだが、もう少しだけ詳しく言うと、まず指摘したいのは「抱きしめて」の抽象性である。

 「抱きしめて」という言葉は通常腕の長さ程度には近い距離にいる相手に対して使われるはずであり、その場合言葉の意図は明白である。一方この言葉がライブで発された場合にはどうなるか。まずは省略されている目的語に話し手であるアイドルを補完し、文意を取ろうとするわけだが、当然観客は舞台上のアイドルを物理的に抱きしめることはできず、聞く人は瞬間少なからず混乱を覚えることになる。そして次に「抱きしめて」の意味を考えることになる。「抱きしめる」は一次的には「腕で対象を囲んで締め付ける」ことを指すが、派生して(感情があってそうするのかそうするから感情が誘発されるのかはともかく)「対象を慈しむ」ような感情表現でもある。混乱で白紙になった頭にその二次的な意味が脳裏に浮かんだ時点で(この間わずか0.5秒)、舞台を取り囲む観客更にはスクリーンの向こうのあなたの心までもが慈しむような気持ちで満たされることになる。この0.5秒の間、目的語は話し手のアイドルにセットされたままだ。つまり、1m離れて相対しているときは「抱きしめて」→抱きしめる→慈愛、になるのが、100m離れているときには「抱きしめて」→?→意味を思い浮かべる→慈愛、となるのだ!これはもう言葉を介した抱擁と言えよう。なんとも文化的なことではないか。デカルチャー!

 ところでこの慈愛はランカ・リー自身のあどけなさが手伝っている(というかほぼそれ)ことは言うまでもないだろう。二次的な意味が浮かんだとき、目的語にランカ・リーがセットされているからこそその意味を遂行する。シェリル・ノームが同じことを言っても、その毅然とした気立てが邪魔をしてしまう(同じ理由で"銀河の妖精"という異名もあまりしっくり来ていない)。つまり、ランカ・リーは自分の武器をちゃんとわかっているというわけだ。台詞の考案者がエルモ社長なのかランカ・リーなのかは分からないが素晴らしい。

 と言っても「抱きしめて」だけでは決め台詞として短すぎる。かといって下手に野暮な台詞をつなげても雰囲気が台無しである。そういう意味で「銀河の果てまで」はいい感じにロマンチックだし、作品の主題とも合っている。そして、ここから先は憶測だが(今までのも憶測ではないわけじゃないが)、マクロス・フロンティアの住民にとってみればその船旅が不安でいっぱいなのは当然だろう。新天地が見つかるかどうかも分からないし、何のトラブルもなく航海を続けられる保証もない。「銀河の果てまで」はその不安を染み込むように癒してくれるのではないか。たとえ旅が途中で不運な形で終わってしまったり、あるいは生涯終わらなかったりするかもしれないけれど、ランカ・リーはその先、銀河の果てまでの運命共同体だよと言ってくれるのである。  あるいは。死をゴールとせず死後の世界を信じることで死の不安を和らげたりよりよく生きられたりという話は現実世界にもあるが、天国にしろ地獄にしろ天竺にしろ月にしろ、その死後の世界は人間が生きている間は地球に縛り付けられていることを前提とした構造をしていることが多いと素人として思う。宇宙の旅人にとっての死後の世界はどこにあるのか、ブラックホールよりは銀河の果てにある方が自然ではないだろうか(「宇宙の果て」の方がふさわしいというのは分かるがそこは語感を優先して「銀河の果て」にしたい。そもそもマクロスの旅がどのオーダーの距離を進むものなのか、銀河1つ分など軽々通り過ぎてしまうものなのかは知らないが)。実際ブレラ・スターンの「散れ!銀河の果てへ!」という台詞もある。「銀河の果て」が死後の世界と似たような概念であるならば「銀河の果てまで」は宗教的意義すら持ちうる。

 以下余談。劇中では(筆者が確認した限りでは)「みんな抱きしめて、銀河の果てまで」がセットであった(実際Wikipediaはそうなっている)(「はちぇまれ~」は「果てまでー」と好意的に捉えるものとする)。ところで、マクロスFのあるコミカライズ版スピンオフのサブタイトルは「抱きしめて、銀河の果てまで。」となっている。「みんな」が無いが、これはこれでよい台詞である。仮にライブでの決め台詞が「抱きしめて」から始まると、より唐突な感が増して前述の混乱の効果が強まることになるのではないか。文字数にも注目したい。5、8と来て、あと5文字続けば字余りの川柳だ(「銀河」は初秋の季語らしいが宇宙に秋も春もないだろう)というところで途切れる。そして始まるライブ。惹きつけ方としても上手く考えられていると言えよう。それは漫画のタイトルにしても同じことだ。さすが分かってますね。閑話休題。

 最後に。ここまでの考察はライブを見に来た観客(および画面のむこうの視聴者)に対してこの言葉が投げかけられているという前提のもと行ってきた。しかし、物語終盤で明らかになる事実と照らし合わせれば、うお。別の存在に投げかけられる言葉としても通じるやんけ。つまりこの台詞は伏線でもあったのだ。

Footnotes

  1. dアニメストアのあらすじの表現をそのまま用いた。

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